ことりロワイヤル

王族、皇族、歴史ブログ

院政と崇徳天皇の呪い

平安中期は、藤原一存が天皇外戚となり、幼き天皇を即位させ、外祖父となってまつりごとをおこなう摂関政治が主流だった。天皇家はさりげなく藤原家を皇族から排除していく。それが院政である

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1068  71代 後三条天皇 藤原と外戚関係のない天皇 藤原家を抑え政治の実権を取り戻します

1086  72代 白河天皇天皇の位を退き、堀河天皇(8歳)を即位させ 上皇になり政治の実権を握り続けた。堀川天皇が29歳で崩御すると

白河法皇は、自身の息子である74代 鳥羽天皇(5歳)で即位させます。鳥羽を上皇になれと命令し

15歳のひ孫 顕仁親王を75崇徳天皇にした。鳥羽天皇は不満だが法皇である白河に逆らえない

白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇は出家して法皇になった。鳥羽の復習がはじまる。崇徳天皇上皇にして、崇徳天皇の弟を76代 近衛天皇(3歳)を即位させた政治を支配する。17歳で近衛天皇が亡くなると鳥羽の第4皇子雅仁親王をで第115代 後白河天皇として即位させる

第四皇子の雅仁は自分が天皇になるとは思わなかったお気楽に育った皇子である。「今様(流行歌)狂い」が好きで天皇の器ではなかった。雅仁の即位は側近も批判した

後白河には政治力の高い信西が側近としてサポートしたので治世はうまくいった

崇徳上皇は弟の近衛天皇のあとは崇徳の子供が天皇になると信じていました。鳥羽上皇は明らかに息子のうちで崇徳だけを無視していました。崇徳は父、鳥羽に不満を募らせた

1156  鳥羽法皇が亡くなる

兄、崇徳上皇平氏、源氏の武士団を集めます。弟後白河天皇も武士団を集めます

保元の乱

崇徳上皇側は夜討の奇襲攻撃をしかけようとしますが、それは卑怯として却下されます。逆に白河天皇側が夜討ちをかけ勝利します

勝利した白河天皇二条天皇に位を譲り上皇になります院政をはじめます

崇徳上皇は囚われて讃岐(香川)に流されました。さて、不幸になると崇徳上皇は信心深くなります。自らの血で3年がかりでお経を写経したました

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写経の出来栄えがとても良いので写経を都の寺に供養して欲しいと文を送りましたが、血の写経を白河天皇は拒否します

崇徳上皇は人が変わったようになり、髪も髭も伸ばし放題になり語られる言葉は意味不明でした。、崇徳上皇は自分の舌を噛み切り「我、日本国の大悪魔とならん!臣下を帝に、帝を臣下にしてみせる!」と舌を噛み切った血で呪いの経典を書いた。3年後、崇徳上皇は死んだ。暗殺説もある

Q. 鳥羽天皇はなぜ息子 崇徳天皇に冷たかったの?

白河法皇は養女がいた。その養女を孫鳥羽天皇の妃にした。しかし養女とは建前で愛人だった。自分の愛人を自分の養女にしてから自分の孫に嫁がせたのだ

鳥羽天皇崇徳天皇のことを「叔父子」と呼んでいた。鳥羽上皇にとって建前は息子だが、実際はおじいちゃんの子供、叔父なのだ

平清盛の清盛の父も白河天皇だったと平家物語には載っています。白河天皇が自分の子供を身籠った女性を部下の平忠盛に結婚させた。武士である清盛の出世の速さはこのおかげといわれています

崇徳上皇の呪い

後白河天皇の妃と二条天皇の息子が死に

御所が大火災。都に落雷

人々は崇徳上皇の呪いだと言い出した

保元の乱では平家は播磨(兵庫県)、安芸(広島)の国守になったのに対し源氏は冷遇された

平治の乱

1159    平清盛が熊野参拝中に源頼朝白河上皇の御所を急襲します。信西は殺され後白河上皇二条天皇は幽閉された。

上皇天皇平清盛によって救出された

源氏の頭領 義朝は殺され、息子頼朝(13歳)は伊豆に流されて北条家に監視された

平清盛は独裁がはじまる

平清盛は御所を福原(神戸)に移転

日宋貿易で巨額の富を得た

武士団を組織化し500あまりの荘園を入手

巨額の富を得た 清盛は厳島神社を建立

清盛は最高位の位 平家一門は高い位を独占

平清盛は自分の娘を高倉天皇摂関家に嫁がせ次々と姻戚関係を結んでいく

仏教勢力も武力で支配した

京の五条には平氏一門の屋敷が170も並んだという

平家はあまり評判はかんばしくなかった。そのため「かむろ」という童たちに平家の悪口を言っていり人がいないか密偵、密告させたりした

1165  79代 六条天皇 2歳で即位して5歳で退位

1168  80代 高倉天皇(8歳で即位) 清盛の妻の妹の子供 清盛は自分の娘を高倉天皇中宮(正室)にした

1177 鹿ヶ谷事件 後白河の近臣たちが清盛の排除を計画したとして清盛は不満勢力を一掃します。後白河院は幽閉された

1180  清盛の娘 徳子の産んだ81代 安徳天皇(3歳)が即位する

平清盛は孫を通じて天皇の力を手に入れた。清盛の独裁政治がはじまる

平清盛が死ぬと、後白河院の息子以仁王(もちひと)が平家に挙兵すると平氏に不満をもつ武士たちが兵をあげました。平家は源義經に負け続けて九州まで敗走した

Q.源義経はなぜ強いの?

  1. 奇襲攻撃
  2. 貴族化した平家は弱体した

1.当時 戦は、場所、日時を決めて行うもの。義経は英雄のように書かれているが、奇襲すれば誰でも勝てる

2.武家だった平家は貴族化した。食べ物も皇族の食事を食べ(肉食なし)戦には化粧さえしていた。武士の源軍は肉を食べていた

1185  壇ノ浦で平家は源義経に滅ぼされた。後白河院の孫の安徳天皇(8歳)と三種の神器の一つが壇ノ浦に沈んだ

頼朝を恐れた 後白河院は頼朝と義経を対立しさせ潰し合わせようとした。壇ノ浦で活躍した義経を取り込むため官位を与えた

頼朝は、自分の許可を得ず官位を受け取った義経を討つ、義経は自害に追い込まれた。清盛は一族を盛り立てたが頼朝は疑い深く 弟の信頼や家臣らも葬った

源頼朝鎌倉幕府を開き「武士の時代」となる

2代目将軍 頼家 無能のため(北条家からみたら)嫁一族もろとも暗殺。頼家の子は出家させ頼家の弟を将軍に据えます

3代目 実朝 北条氏が執権となり政務を総括。北条一族はライバルの有力武家らを次々潰した

1219 実朝は公暁(頼家の子供 実朝にとっては甥)に殺された。公暁も処刑。実朝に子供はなく、頼朝が弟たちを殺戮していたため源氏は途絶えた

北条政子摂関家から三寅(みとら)を養子に迎え4代目将軍として、政子と兄の時頼が後見人として政務代行した。尼将軍誕生

82代 後鳥羽天皇(2歳)即位。三種の神器は前天皇安徳天皇と共に海に沈んだため、三種の神器なしの最初の天皇となった

83代 土御門天皇(4歳)即位。16歳で上皇

1221   承久の乱 後鳥羽上皇は朝廷に政権を取り戻すため 全国の武士に「北条義時を討て」と院宣をだします。政子は「頼朝様の御恩に報いよ」スピーチにより武士たちは北条家につきました

上皇上皇側についた公家、寺社、武士の土地は没収され

後鳥羽上皇隠岐

83代 土御門天皇→阿波

84代 順徳天皇佐渡島流し

順徳天皇の息子、代85代 仲恭天皇(即位4歳)は廃位された(在位最短78日)

三人の天皇上皇島流しという異例のじたいがおきる

北条氏は後鳥羽の血筋ではない 86代 後堀河天皇(10歳)を即位させ、六波羅探題(今でいうなら警察)を設けて、朝廷を監視した。この後も天皇は度々討幕の計画を立てますが、幕府にバレて側近が自害に追い込まれます

元寇の乱

御家人たちの戰の費用は自腹です。武士たちは借金をして戰に臨みました。外国の戦争のため新しい領地が入らず恩賞を与えられません。幕府は御家人の借金地獄から救うため政令(御家人の借金をチャラにする)を出しましたが、御家人以外は苦しみます。御家人にお金を貸す人がいなくなり、幕府は信頼を失い支配が弱まります

一方朝廷では

大覚寺統(亀山天皇の子孫)

持明院統(後深草天皇の子孫)

の二つが、皇位継承問題から対立していたました。大覚寺統の96代 後醍醐天皇は幕府に不満を募らせていた

諦めない男 後醍醐天皇

正中の変 後醍醐天皇は政治の実権を取り戻そうと画策しましたが事前にバレて失敗

元弘の変 再びチャレンジして楠木正成などに呼びかけたが事前に事がばれ失敗。隠岐(島根)に流された。しかし足利尊氏新田義貞天皇側についたことで鎌倉幕府を滅ぼした

建武の新政

後醍醐天皇は貴族たちを用いて武士たちを冷遇した

治安が悪くなり、人々は不満を抱えた

上皇の後ろ盾で足利尊氏が挙兵した

後醍醐天皇は神器をもって吉野に逃げ南朝をたてた。足利尊氏は京都に別の天皇を立てる

南北朝時代

1392  交互に北朝南朝天皇になると言う取り決めをして南朝は3種の神器を北朝に渡す

北朝天皇 100代 小松天皇三種の神器を手にして即位

しかし、101代は北朝の 称光天皇だった。南朝は騙されたのだ

天皇の即位に際しては、幕府の賛成が必要とされた

足利義満は明の建武帝から「日本国王」に任じられた。義満は妻を天皇の母の身分とした

困窮する天皇家

室町幕府の財政が悪化した。幕府から金銭援助を受けていた天皇も経済的に困窮する

1464  103代 後土御門天皇崩御しても葬儀費用がなくて葬式は死後44日後に行われた

1467  足利家の家督争いである応仁の乱がはじまる。京都は焼け野原になり幕府は混乱する

1500 104代 後柏原天皇は即位の大礼の費用を負担できなかった

戦国時代になると幕府からの資金は絶望

105代 後奈良天皇は直筆で額に文字を書く内職をしていたという逸話がある。大内氏献金を受けた

106代 正親(おおざまち)天皇 信長は天皇の保護を留学に京を支配下におき、天皇を資金援助する代わりに天皇の勅令を利用して戦った

107代 後陽成天皇 豊臣秀吉の資金援助で即位した。天皇は秀吉に豊臣の姓を贈り、勅令をだした。秀吉は能、茶会を催し天皇との親密さをアピールした。秀吉は天皇から関白に任命された。関白は公家しか任命されなかったのだ。農民の子がはじめて関白となった

徳川幕府京都御所を再建しますが、朝廷を厳しく監視し続けます。徳川家の飼い犬となった天皇家

臣下を天皇に 天皇を臣下に

崇徳上皇の呪いが成就した

海外から大砲で開国を迫られ 幕府は不平等条約を受け入れます。民衆は弱腰の幕府に失望し「尊王攘夷」思想がたかまります。江戸幕府天皇大政奉還して

1886  王政復古 明治天皇が権威を取り戻します

天皇の使者は崇徳上皇の墓をお参りし丁寧にお詫びし、怒りをなだめたあと、京都に新しく建てられた白峰神社に呼び迎えた

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瀬を早み 岩にせかるる滝川の

われても末に あはむとぞ思ふ

崇徳上皇