「愛子様。初記者会見記念おめでとう」
国民と苦楽を共にしたい‥(愛子様)
「誠実で想いありのある立派な会見だったわ。誰かさんとは月とスッポンね。きっと親の教育が違うのよね。あの夫妻の警備費に年間8億円かかるんですって。民間人なのに。不平等だわ」
「年間8億ならば、私たち国民は年間8円で面白夫婦ウォッチングを楽しんでいるの。年間8円で面白夫婦をウォッチングできるなんてお安いわ」
「なるほど、あの夫婦は私たち国民を楽しませるために身体を張って笑いをとっているのね。でもあの宮家が皇嗣を継ぐなんて敬愛できないわ」
「皇室典範では天皇は男系男子のみ。この皇室典範は明治22年に決められたもので過去には8人の女性天皇がいたの。今日は江戸時代の女性天皇について学わよ」
1615 禁中並武家諸法度 天皇、皇族、公家の行動を制限した。天皇は古来から法令の外にあったのです。これにより天皇は初めて法令に縛られたのです
家康は京都御所の側に二条城と京都所司代(役所)を置き、天皇と朝廷の動きを監視しました
更に家康は孫の和子(まさこ)を後水尾天皇の妃にしようと圧力をかけた。藤原家のように天皇の外戚になろうとしたのだ
108代 後水尾天皇には既に結婚したい人がいた
後水尾天皇は「喪中だから‥」「風水では‥」などのらりくらりと延期します
後水尾天皇との間に子供が産まれた一報が江戸城に伝わると「我娘を拒んでおきながら、密かに子供を成すとは!徳川幕府を蔑ろにしている証拠!許さん」と大憤慨し 側室を含む、関係者が流刑に処せられます
脅された結婚でしたが、和子は気立の良い女性でしたので後水尾は和子をいたく気に入り夫婦仲は良好だった
2人の間に女一宮、皇子も産まれます。後水尾天皇も喜ばれましが、それ以上に徳川秀忠は「徳川家の血筋を引く天皇が誕生した」と喜びます。しかし皇子は2歳で薨去されます。後水尾天皇は徳川家に不信感を抱きます「和子は可愛いが徳川天皇は許せん」
後水尾天皇は5歳の女一宮 興子に譲位しようとします
女性天皇は生涯独身が不文律。女一宮が天皇になれば、結婚も子供も産めませんから徳川天皇は継続できません
徳川家は「これから皇子が産まれる可能性はあるのだから」女一宮への譲位を考えなおすよう諭しますが
「女一宮は徳川家地筋の天皇。徳川家にとってもめでたいでおじゃる」と話は平行線を辿ります。しかし事件がおきます
紫衣事件 天皇が高僧の最高位を表す法衣をやたらと授けることを幕府が禁じた
天皇の権力を削ぐための幕府の策略です
これに対し反発した僧侶たちを幕府は流罪に処した
さらに春日局が後水尾天皇に強引に謁見しようと昇殿に押し入りした
幕府は完全に天皇を見下したわけです。後水尾天皇は我慢ならず幕府の賛同なしに強引に女一宮を天皇に譲位します
859年ぶりの女性天皇
109代 明正天皇(7歳)即位
859年ぶりの女性天皇であり、初めての幼女帝になります
天皇になってしまった以上、仕方ないと幕府は不問にします
後水尾天皇は上皇になります。禁中並公家諸法度には上皇に対する規則は書いてなかったのです。幕府は天皇を制限できても上皇は制限できなかったのです。以後 後水尾上皇は85歳で崩御するまで自分の子供天皇4代に渡り院政を敷きました
後水尾上皇が政務を行ったため、明正天皇はただのお飾り天皇でした
天皇としての仕事もなく暇だったの」性格は穏やかで手芸が上手でした
21歳で異母弟に譲位し上皇、出家して法皇となり72歳で生涯を閉じました
徳川血筋の天皇作戦に頓挫した幕府は、今度は摂関家に近づき優遇します。天皇家と摂関家を分断させ、天皇家の権力を削ごうとしたのです。摂関家が政務を独占して。宮家より立場が上になります
国学ブーム
竹内式部らが尊皇論を桃園天皇に教授しようとしますが、摂関家がそれを幕府に告げ口して
最後の女性天皇
116代 桃園天皇は22歳で亡くなります。息子の英仁親王はまだ5歳です。皇子が大きくなるまでと桃園天皇の異母姉が
117代 後桜町天皇即位 します
英仁親王が12歳になると後桜町(30)は譲位した
118代 後桃園天皇(12歳)即位
しかし、後桃園天皇も21歳で崩御してしまいます。後桃園天皇には1歳になる女の子しか子供はいませんでした
傍系の閑院家の第六皇子 師仁を天皇にします
119 光格天皇(9歳)
後桜町上皇は光格天皇の後見役として手元に置き育てあげます。後桜町上皇から帝王学、尊皇論、天皇の矜持をを学んだ光格天皇は、新嘗祭、大嘗祭を復活させます
天明の大飢饉で大勢の餓死者がでた時、光格天皇(16歳)は幕府に苦言を呈し救済を要請しました
(後桜町天皇の)仰せの通り、私個人の欲は持たず、天下万民いかにして慈悲と恵みを与えられるのかとおもうことは、君主たる者の第一の教えです
民を想う立派な天皇に成長されたのです。後桜町天皇も飢饉では民たちに食糧を支給されました。後桜町天皇は74歳まで生き「国母」と呼ばれました
江戸時代の女性天皇
1858 大老 井伊直弼イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、オランダに不平等な通商条約を結びます
幕府の弱腰な態度に民は失望して「尊王攘夷思想」が高まります
大老が暗殺されるほど幕府の力は弱まった。幕府は朝廷に頼り公武合体を願いでます
121代 孝明天皇は攘夷派でしたが、公武合体を決意します。攘夷と公武合体は矛盾しています
孝明天皇の妹 和宮には有栖川宮親王と婚約していましたが14代将軍に降下させます