ことりロワイヤル

王族、皇族、歴史ブログ

小室眞子の結婚㊗️皇族の婚姻を学ぼう

「眞子さんの結婚大丈夫かしら?」

「実は明治以降の近代皇室でも婚姻に揉めた事件はたくさんあるのよ。今日は近代皇族の婚姻について学ぶわよ」

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日本の皇族は基本男系男子のみが天皇となり126代まで受け継がれます。皇族は血統が大事なのです

原則として皇族同士の近親結婚です。推古天皇は自分の異母兄と結婚しました。飛鳥時代まで母親が違えば兄弟同士でも結婚することができました。天武天皇と妃の持統天皇は叔父と姪の関係です

聖武天皇の皇后 光明子は藤原家であり皇族でない初めての皇后です

摂関家から天皇家にお輿入れしたり、女性皇族ならば天皇家から摂関家へ降家を繰り返します

明治から戦後までは皇太子妃候補は皇族の中から探し、その中で適任者がいなければ五摂家の中から探す、それでも見つけられなかったら清華家、なお見つけられなければそれ以外の公爵家や侯爵家から選ばれていました

五摂家 摂政、関白、太政大臣を輩出できる家系、公家の中でも別格で禁中並公家諸法度では、皇族より席順が上位とされた

  1. 近衛家
  2. 鷹司家
  3. 九条家
  4. 一条家
  5. 二条家

明治維新には皇族は伏見宮、桂の宮、有栖川宮閑院宮の四つの宮家しかありませんでした。明治天皇は10人の皇女がいたが成人したのは4人です。4人とも皇族間結婚でしたから、賀陽宮東伏見宮竹田宮朝香宮東久邇宮を創設したのです

大正天皇

伏見宮貞愛親王の娘、禎子(さちこ)女王と結婚内定します

禎子女王の健康診断に「結核の予兆あり」と診察された。婚約は破棄され「健康である」ことを理由に九条節子姫がお妃に選ばれました

禎子女王はその後、山内豊景公爵と結婚した。薙刀の達人で全日本薙刀連盟の初代会長てして活躍した。禎子女王は節子(貞明皇后)より14年長い80歳で亡くなった

大正天皇備前国佐賀藩主の鍋島侯爵の娘、美貌で評判の伊太都子がお気に入りだった。鍋島侯爵邸に足繁く通う大正天皇に節子妃は焼き餅を焼いたという。伊都子は後に梨本宮家にお輿入れした。大正天皇天皇としては、初めて側室を置かなかったが男子四人に恵まれた

昭和天皇

久邇宮家の第一王女 長子

梨本宮第一王女 方子(まさこ)が有力候補となった。二人は従姉妹同士でもある

1920 梨本宮方子は朝鮮王族の皇太子と結婚した

大正天皇は島津家の長子を立太子のお妃候補とした。長子とその妹たちは身体検査を受けさせ 皆健康体でした

1919 6月10日 昭和天皇と長子の婚約内定

1920 1月6日 二人は初対面した(節子皇后同席で1時間ほど)

ところが長子の母方(島津家)には色覚の遺伝疾患があり一族に色弱の者が何人かいることが発覚した。当時の天皇は軍の頂点にたつ立場。色弱は兵役免除になるため務まらないのだ

久邇宮家は皇太子妃を辞退すべし」という圧力がかかった。父 久邇宮

綸言汗のごとし

一旦身体から出た汗は、戻ることはない

と拒否した。さらに節子(さだこ)皇后に直訴状を手渡した。皇后は伏見宮王を使者に立て、辞退を進めてもらった。久邇宮は「婚約解消するなら、良子を殺して自分も切腹する」と答えた。久邇宮の押し付けがましさと恫喝と強引さに節子皇后は辟易し憤慨した

昭和天皇が「朕は長子がいい」と鶴の一声で長子と結婚することになったと言われているが久邇宮に皇室が折れたのだ。節子皇后は、良子に会おうとしなかった。あの父親が「自分が勝った」というのが実に腹立たしい(側近)

昭和天皇の結婚式はお車で質素に行われた。弟の雍仁(やすひと)は金色絢爛とした2頭立ての馬車であった

久邇宮邸は皇室から2万2千坪の土地を与えられ豪邸を建築して貰った。粘った甲斐はあるのだ。その後自分の息子の婚約の際、気に入らない件があり相手側に辞退するよう迫り婚約解消した

昭和天皇には二人の親王、5人の皇女がいて成人したのは4人

照宮成子内親王

東久邇盛厚王と結婚、後に宮家は廃止された

結婚が決まってから東久邇氏とお見合い

戦争に負け、11宮家の廃止、華族制度廃止により皇女は民間人と婚姻をするようになった

孝宮和子内親王

五摂家 鷹司家第27代当主鷹司平通氏と結婚

和子内親王降家の持参金487万円(当時)戦死者一万人の手当分)

後に旦那様は行きつけのバーのママとストーブによる一酸化炭素中毒で死亡

2年後、和子さんの家に強盗が押し入る

昭和天皇は和子を不憫に思い異例の赤坂御用地に和子さんを住まわせた

順宮厚子内親王

岡山藩主池田家第16代当主池田隆政氏と結婚

持参金 700万円(今なら2億5000万円)

トラック6台分の花嫁道具

動物好きの二人に総工費300万円の平家の新居建設

1988 伊勢神宮祭主

2017 黒田清子さんに祭主を引き継がせた

清宮貴子内親王

私の選んだ人を見てください

島津久永氏(旧華族)と結婚

西部ピザに勤務

1989年から2005年まで、プリンスホテルの顧問取締役

平成天皇

1958  明仁皇太子は軽井沢テニスコートで出会った日清製粉の社長令嬢 正田美智子さんと結婚

東宮様のご縁談について平民からとはけしからん 香淳皇后

皇太子の婚姻パレードには豪華な馬車だったことは質素な結婚パレードをさせられた良子を更に憤慨させただろう

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テレビカメラのまわる式典で美智子さまのみ何も声かけず通り過ぎた時もある

開かれた皇室

女性週刊誌は毎週のように美智子妃の写真、記事を掲載するようになった。次第にメディアは女性皇族を芸能人と同じように扱うことに慣れていった

皇族を、テレビ、新聞、雑誌、などで聴いて、見て、読んだだけで、本体を知らずして、かつ本人の地声や意見も聞いていない状況で、マルバツ式に皇室制度の是非を問われたらたまりません

メディアを通じて国民が皇室を識るということは、あくまでも「最善の策」ではなく「次点の策」ということが原点であることをご理解ください

三笠宮寛仁殿下

美智子妃殿下は東宮御所にキッチンをつくり料理をし 子供たちを手元で育てた。いずれ民間に降家する紀宮内親王に料理を教えたという

紀宮清子内親王

2005 黒田慶樹さんと結婚

天皇と娘が旧華族出身ではない平民と結婚した最初の例とされている

黒田慶樹

トヨタ自動車に勤めていた父は薩摩藩士の家系

父方の祖父の妻は秋月子爵であり、吉田茂首相にも繋がる閨閥である

清子さんは降家後、毎週のように自ら車を運転して皇居に通われている

2012年 黒田清子さん皇室復帰待望論

伊勢神宮の臨時祭主に就任

2017年 神宮祭主に就任

三笠宮

三笠宮家の次女 容子(まさこ)内親王

学習院代が卒業後、フランスのソルボンヌ大学に留学し、フランス人男性と同棲していた奔放なプリンセス

1983 裏千家の千宗之さんと結婚

結婚が決まると三笠宮夫妻は、バリに飛び相手の男性と金銭的に関係を処理したという

高円宮

次女 典子女王 

2014年 15歳歳上の出雲大社権宮司の千家国麻呂さんに嫁ぐ

2016 週刊誌で別居報道

2020 三女 絢子女王は官僚を父にもつ守谷彗さんと結婚しました

長女の承子女王は長年お付き合いしている銀行員の彼氏がいるそうです。承子さんは「結婚とお付き合いは別」と語っています