へ「悠仁さま筑波付属合格おめでとう」
「お茶の水付属と筑波大不足からの提携進学利用で受かることが決まている出来レースよね?合格といえるのかしら?」
お茶の水女子大学附属中学校|偏差値・入試情報|首都圏模試センター
お茶の水中学偏差値
女子 72
男子 53
この偏差値は中学受験の通過者の偏差値であり、内部進学は通常これより下まわる
悠仁さまが小学校卒業と中学校卒業時にちょうど被る5年間だけ しかも利用したのは悠仁様だけ‥悠仁様を筑波にねじ込むために作られたと国民は思うわ。お茶の水だって受験しないで入学したし‥国民の心は秋篠宮家から離れていくわ」
「いいえ子供文学作文コンクール佳作受賞が決めてとなったの。正当な実力で合格したの。決して裏口入学じゃあないのよ」
「コンペ入賞といっても北九州主催のローカルコンペよね。盗作疑惑もあるわ」
「万世一系の天皇家の悠仁さまが盗作みたいな卑劣な真似するわけないわ。あれは世界遺産小笠原ガイドブックが優秀な悠仁さまの作文を引用したの」
「義理の兄も2回も論文コンクール入賞したわね。秋篠宮家はコンクールが大好きなのね」
「皇族は特別なの。特権階級なの。コンペ入賞は当たり前なの。忖度は当たり前なの。それは決して不正ではないのよ」
「特別枠で名門国立に通ってついていけるのかしら」
「筑波付属は学校の成績が本人にしかわからないようにプライベートの守られているの」
「成績が誰にもバレないからやりたい放題ね。ローカル論文コンペで入賞して筑波でも優秀な成績で推薦で東大ともうすでに決まっているのね
秋篠宮家 改築費用 33億円
国民がコロナで苦しんでいるのにいい後身分ね。身の丈にあった進学を‥それはお前だ秋篠宮!」
「国民がコロナで自粛している今だからこそ秋篠宮家は日本の景気を良くされるために経済活動として秋篠宮家の改築に33億円もお使いになるの
秋篠宮家は次期天皇家だから身の丈にあった贅沢をしていらっしゃるの
悠仁さま筑波入学も次期天皇家としての当然の権利であり。忖度は当たり前なの」
「どうせ忖度ならばローカルコンペ佳作みたいなハンパな賞ではなく全国規模コンペ一位にして内閣総理大臣賞を岸田総理大臣から授与されればいいじゃない」
「皇族は大変なの。皇族の仕事はアヒル口してお手振りしているだけじゃないのよ。税金泥棒ではないのよ
皇族は126代 嫡出の長男子相続が基本原則です。男系天皇で継承された世界最古の(皇)王族なの」
「男系しか天皇になれないのは男尊女卑だわ」
「男系であるのはある一族の血筋を遺伝してきた不合理な存在です。伝統とは不合理ゆえに伝統なの。決して男尊女卑ではないのよ」
「わけわかんないわ」
「今日は日本最大のカルト「皇族」の歴史を遡るわよ
日本という国家の成り立ちは天皇126代と共にあり続けた。天皇家を知ること、それは日本の歴史のあゆみを知ることなの
日本列島は今から1万3000年前ごろから気候の温暖化が始まり、大陸から切り離されて日本列島ができた
縄文時代
気候が温暖化により多様な食生活ができるようになり定住的な生活が始まりました
アミノニズム 縄文時代の暮らしは自然環境に大きく影響されたため、人々はあらゆる自然現象に霊魂が宿ると考えていました
弥生時代
水田稲作が定着し各地にムラができました。稲作か始まると貧富の差が出てきます。貯蔵された米を奪い合い 戦も始まります。ムラが大きくなりクニになります。ムラの長は王になります。中国の魏志倭人伝には日本には100の国がありました。邪馬台国の卑弥呼という女王が巫女として国を治めていたという記録があります
弥生時代後期には各地で豪族、大王が大きな古墳をつくりました
720(編集) 日本書紀 地上は混沌していた
712 (編集)古事記 天と地が分かれた
次に5柱の神が誕生した
国之常立(クニノトコダチ)の神、豊雲野神(トヨクニノカミ)など
伊邪那岐(イザナギ)神とと伊邪那美(イザナミ)神が 天の浮橋から地表に天野沼矛で掻き回して日本が誕生した。2人は結ばれイザナミは神々を沢山産んだ
イザナミは火の神を産んだときに大火傷をして死に黄泉の国に行きます。イザナギは妻を迎えに黄泉にいきますが、妻は「酷い火傷をしてるから見ないで欲しい」と頼みます。愛する妻の姿ならどのような姿でも構わない。とイザナギは見てしまいます。妻の変わり果てた姿を見てしまいます。「見ないでといったのに!」イザナミ激怒しイザナギは逃げ帰ります
須佐之男命は神聖な馬の皮を剥いだりやんちゃでした。暴虐無人な弟に天照大神は岩戸に引きこもり世界は真っ暗になります。神々は岩戸の前でお祭りをして八咫鏡(やたの鏡)をみせます。天照大神は様子を伺います、その隙に岩戸を開かれます
画像 Wikipedia
引きこもりをやめた天照大神は須佐之男命を追放します。須佐之男命は島根(出雲)に住みます。出雲は八岐大蛇に悩まされていました。櫛名田比売(クシナダヒメ)を八岐大蛇が食べに来るとのです。須佐之男命は八岐大蛇を退治します。その時八岐大蛇の尻尾から草薙剣が出てきます。須佐之男命は櫛名田比売と結婚して多くの神を生み出しました
その6代目子孫のオオクニヌシ。(因幡の白兎を助けた)オオクニヌシが須佐之男命の娘 スセリヒメが結婚し事代主(コトシロヌシ)と建御名方(タケナカタ)が生まれます
出雲が豊かになると天照大神は建御雷(タケノミカズチ雷の神)を使者に出雲を引き渡すよう圧力をかけます
オオクニヌシは「出雲大社を作ったら国を譲る」と言います。国を譲るのを反対したタケミノカタは諏訪に追放されます
天照大神は孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に八咫鏡(やたの)、草薙の剣、勾玉を持たせ日向国(高千穂)に降臨させました。その子孫が天皇になりました
前660 初代 神武天皇が東に遠征して大和で奈良県で初代天皇として即位した
前 97年 10代 崇神天皇 実在した最初の天皇と考えられている
71年 12代 景行天皇 日本武尊(ヤマトタケル)の遠征伝説
14代 仲哀(ちゅうあい)天皇 崩御後 妻である神功皇后が天皇としての務めを70年間も果たしてきた。在位中は新羅(朝鮮)と争い勝利した。今は天皇としてはカウントされていない
313 第16代 仁徳天皇 民を思う天皇といわれた。大きな古墳から力があったのだろう
磐井の乱 友好国伽耶国が新羅に併合されそうになると継体天皇は新羅に出兵を試みます。筑紫の国の豪族磐井はこれに反対して反乱を起こします。天皇は反乱を鎮め国は安定します
飯豊天皇(女性)が10ヶ月天皇として政務を行なっていたが、彼女も天皇としてはカウントされていない
539 第29代 欽明天皇の時代に仏教が伝来します。曽我氏(仏教派)vs物部氏と穴穂部皇子(神道)で争います。曽我氏が物部氏を滅ぼし権力を手に入れ仏教がメインとした宗教になります。物部氏を倒した蘇我稲目は自分の2人の娘を欽明天皇にお輿させ天皇の近縁者となります
はじめての女性天皇
初めて女性天皇として認められた 推古天皇は 29代欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の皇女として誕生します。18歳の時に腹違いの兄の敏達天皇と結婚し皇后となります
「自分の兄と結婚!気持ち悪い」
「飛鳥時代まではやんごとなき地位にある人々は、母親が違えば兄弟同士でも結婚できました。決して変態ではないのよ。他の血族と婚姻関係を結べば、乗っ取り、土地相続で争いが生じるのです」
敏達天皇は即位直後に崩御、弟の用明天皇(推古天皇と母が同じ)も早世
末弟の崇峻天皇が即位します。崇峻は蘇我家を忌み嫌っていた。猪が献上された時、「いつか この猪のように、憎いものを斬りたいものだ」と言い放ちました。それを伝え聞いた馬子が刺客を差し向け暗殺しました。公式では唯一臣下に暗殺された天皇である。崇峻天皇は葬儀も行われないまま埋葬された。蘇我馬子は推古天皇を次の天皇に指名しました
前例のない女を天皇にしても家臣はいうことを聞かない。蘇我馬子は推古天皇を自分の傀儡に利用しようとするのは明らかです
推古天皇は二度にわたり即位の打診を拒みますが馬子に執拗に迫られた
33代 推古天皇即位 息子の竹田皇子が成長するための中継ぎとして天皇を受け入れた。ところが竹田皇子も直ぐに亡くなります
厩戸皇子からみたら蘇我馬子は大叔父さん。推古天皇は叔母。蘇我家が天皇家を支配したも同然。願ったり叶ったりでした
画像 産経新聞
聖徳太子 第30代用明天皇の皇子 母は蘇我家。太子の母は久世観音菩薩が「お腹を借りたい」と入り込んだ夢を見た後太子を身籠った。生まれた時から言葉を話し、2歳で念仏を唱え、5歳で1日数千文字覚え 10人の話を同時に聴くことができた
冠の色で役職を区別。これまでセレブの家に産まれたらどんなアホでも無能ても高い地位につけた時代だった
この2つはいずれも豪族(とりわけ蘇我氏)の力を削ぐものでした
身分が低くても実力が有れば用いれられる実力官僚政治に変わる。これにより豪族政治から官僚政治となります
600 随に外交するも「祭りごと」をしない国とは関わらないと謁見できず追い返されます。聖徳太子は法隆寺など寺院建設の公共工事に励みます
ヘレニズム文化に影響されています
夢殿
遣隋使を派遣して大国 随と対等な外交を確立しました
厩戸の王子が亡くなると蘇我馬子は横暴になります。天皇直轄の領地を示し「ここはその昔、蘇我氏の寮長だったので返していただきたい」と恫喝します
聖徳太子ならば天皇の土地の正統性と理路整然と述べるでしょう。女ならばチョロいものとタカを括ったのかもしれません
推古天皇「今までは、できる限り馬子殿顔を立て、願いになかうようにしてきたつもりです。しかし、今この領地を渡してしまえは、後に私は力ある臣下におもねった、愚かな天皇だったと言われるでしょう。同じく、馬子殿も、朝廷を蔑ろにした大臣であったと悪名を後世に残すことになりますよ」と述べた。馬子は2の句がつげず、聞き入れざる得なかった
聖徳太子を右腕に
- 冠位十二階
- 憲法作成
- 中央集権国家の礎
- 隋との対等な外交
- 遣隋使
最初の女性天皇 推古天皇は聡明な女性だった。推古天皇は75歳で崩御(在位期間は37年)
後継ぎを決めないで崩御したため蘇我蝦夷は敏達天皇の子 田村皇子を天皇に推薦した
舒明天皇が亡くなります。息子の中大兄皇子はまだ10代 当時は天皇は40代のベテランで天皇に即位できなかったのです
そのため舒明天皇の寡婦を35代 皇極天皇として即位することになりました
天皇の妻であった天皇皇極天皇は帝王学など受けていません。蘇我親子のいいなりの傀儡でしかありませんでした。息子の中大兄皇子(19歳)は蘇我氏が許せません
乙巳の変 中大兄皇子は中臣鎌足と皇極天皇の目の前で曽我入鹿を打ち取ります。入鹿は皇極天皇に助けを求めますが皇極は立ち去ります。こうして蘇我蝦一族は滅ぼされます(乙巳の変)
次の日、皇極天皇は皇位を弟の軽皇子を36代 孝徳天皇にして生前譲位します。初の譲位です
645 大化の改新
- 公地公民(豪族たちの土地を国有化して豪族たちの力を奪う
- 班田収授の法 戸籍を整え国の土地を公民に貸し与えた)
- 租庸調
- 中国にならい元号をつけた「大化」
聖徳太子の夢 天皇による中央集権国家づくりが実現します日本の天皇国家の基礎が出来上がった
皇極上皇は37代 斉明天皇として再び即位します(重祚)。初めての重祚です
白村江の戦い 友好国百済を助けるため唐、新羅連合軍と戦うも負ける。百済はほろぼされ新羅が朝鮮統一する
戦で負け、大規模な工事を行い民衆は苦しめられました
中大兄皇子は日本も滅ぼされると危機を感じ太宰府に防人をつくります
661 40代の大人になった中大兄皇子は38代 天智天皇なります
大津の宮遷都
天智天皇には同じ母(皇極天皇)弟の大海人皇子かいます。天智天皇は自分の娘4人とも大海人皇子に嫁がせていますから仲は良かったと考えられます
しかし、天智天皇に皇子が生まれると2人は険悪になります
当時は天皇に弟がいれば天皇の子より弟が先に天皇になりました。大海人皇子はカリスマもありました。自分の息子を天皇にしたい天智天皇は弟の大海人皇子が邪魔になります。命の危険を感じた大海人皇子は「私 天皇になる気ありませんよ」と出家し吉野に去ります
671 壬申の乱 天智天皇が崩御 息子が39代 弘文天皇として即位すると大海人皇子は挙兵します。カリスマのある大海人皇子に人々は従いいつしか大軍ができます。大軍をみた大友皇子は自害します
藤原京建設
天武天皇には兄から娘4人を妻に迎えました。長女の太田皇女は2人の幼児を残し亡くなりなると2女の鸕野讚良(うののさらら)姫が正室になります。鸕野讚良は自分の息子 草壁皇子を天皇にしたいと願います
しかし早世た姉の息子 大津皇子はカリスマがあり、対して草壁皇子は病弱で凡庸でした。天武天皇も民も大津皇子を次期天皇と期待します
天武天皇が亡くなると 大津皇子に謀叛の疑いがかけられます。大津皇子は自害させられます
そうは上手くいきません。天罰が下りました。草壁皇子は天皇になる前に病で他界します
天武天皇には皇子が他にが7人います。本来ならば息子の誰かが天皇になります
鸕野讚良は自分の孫を天皇にしたいと考えます。孫はまだ7歳 鸕野讚良は孫が成長するまで自分が天皇になります
41代 持統天皇即位
大宝律令
律 刑罰導入
五刑
- 「苔」「杖(じょう)」木の棒で叩く
- 「徒」懲役刑
- 「流」流刑
- 「死」死罪
- 八虐 天皇に対する罪。特に重く罰せられる
令 行政法
正式名称が大王→天皇に変わります、「天皇の権威が「神」にまで高められたの」
孫の 軽皇子が15歳になると、孫に譲位します
今まで
としたのです。文武天皇は父か天皇になる前に亡くなりましたから正式には天皇の子ではありません。正式いえば持統天皇からの継承です
また当時の天皇は40代過ぎたベテランで天皇になります。持統天皇は15歳で文武天皇を即位させ、譲位して「上皇」となり青年天皇をサポートします
持統天皇は58歳で崩御。仏教の「荼毘に伏す」という概念が広まり「火葬」を希望した。天皇としてははじめて火葬 荼毘に伏した。夫 天武天皇と同じ陵に合葬された。夫婦合葬も他に例はありません